毎日、いつ死んでも良いと思えるくらい充実した日々を送っている人なんて、世の中にいるのでしょうか。
私なんかは、これまでやらずに後悔していることばかりで、いつ死んでも後悔しかないだろうと思うわけです。
ハーバードビジネスロースクールのクレイトン・クリステンセン教授は、自身の研究で経済界にとてつもない業績を残しています。全く畑違いの私ですら、「イノベーションのジレンマ」は聞いたことあるくらいです。
お亡くなりになり、追悼特集で過去の論文が再掲されているものをパラパラと読んでいたところ、人生観について語られた論文に興味を惹かれました。
それは、人生をどう誠実に生きるべきか、犯罪者にならないためにはどうするべきかについて語られたものでしたが、その中の、自分の人生の中で「この一度だけ」がもたらしかねない損失についての部分です。
教授は、オックスフォード大学の体育会のバスケットボール部で過酷な練習をこなし、ついには大学選手権の決勝戦まで、レギュラーメンバーで進出したそうです。残す決勝戦は日曜日でした。ところが信心深い教授は、16歳のときに日曜日には球技はしないと誓っていたそうです。そのため、あれだけ憧れていた決勝戦に出場しませんでした。
理屈の上では、人生に何千回もある日曜日に過ぎません。しかし、教授は、「この状況なら一度くらい許されるだろう」というこの誘惑に打ち勝ったことが、人生で最も重要な判断だったそうです。
その理由について、こう語っています。「人生は『例外が許されてもいい特別な状況』が果てしなく続くものだからである。私がその一度だけ足を踏み外していたら、その後の人生で繰り返し同じことをしていたに違いない」、「私がこのことから学んだ教訓は、自分のルールを100%守ることのほうが、98%守ることよりもたやすいということだ」と。
例外を一度認めると、何が例外が許されるべき場面で、何が許されない場面なのかの判断がつかなくなります。たいてい例外を認める場面は、身勝手な理由なので、当然の話です。
一度の例外を認めることで、何を自分が大事にしてきたのかもわからなくなってしまうということです。
政治家の倫理観の欠如も、企業の環境汚染も、犯罪に手を染めてしまう個人も、すべては例外を認めるべきではないにもかかわらず例外を認めたことに起因しているのかもしれません。
振り返ってみると、私も一本貫き通さないといけないところで、例外を認め過ぎてきたのではないかと、後悔することがたくさんあります。恥知らず、後悔ばかりです。
同じようなことは、太宰治も小説の冒頭で言ってますし、King Gnuも歌ってます。人は変わりませんね。
ただ、誤解しないようにしたいのは、つまらないことにこだわることで、もっと大きな自分の中の目標を見失ってはいけないということです。
人と人が交渉するとき、何のために交渉しているのか目標を見失ってしまい、目の前のつまらないことにこだわって決裂させてしまうような場面です。
逆に、自分の一番大きな目標を見つけたら、それはすべての行動の軸になるものなので、例外を認めるべきではないだろうということです。
それを見つけるのは難しいのですが。
人生の目標を見つける自分探しの旅をしたいと思いつつ、そんな暇ねえなと今日もぼやいて仕事をする毎日です(^^)
参照:“How Willl You Measure Your Life?”HBR,July-August 2010.
illustration by hana jang
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