- アキレスと亀
今回も私からあなたへの質問です。
ギリシャ神話ではおなじみのアキレスが、亀から競争をもちかけられました。アキレスの方が亀よりも足が速いので、同時にスタートしても勝ち目はありません。そこで、まず、アキレスの前方を亀が歩き、ある程度時間が経ってから、アキレスが走って亀を追いかけることにしました。アキレスと亀が進む道は全く同じです。別の道を通ってはいけません。
さて、まず、亀がA1地点を通過し、そのあとアキレスがA1に到着しました。アキレスが亀が通過したA1に着いたとき、亀は少し先のA2に移動しています。さらに、アキレスが亀が通過したA2に到着したとき、亀はそれより少し進んだA3に進んでいます。アキレスが亀が通過したA3に到着したときには、亀はそれより少し先のA4に…。
こうしてその後も、アキレスが亀が通過した場所に到着したとき、亀はその少し先に進んでいることになります。
さて、アキレスは亀に追いつくことができるのでしょうか。
これは、パラドックスの世界では有名な、アキレスと亀のパラドックスです。亀が既に通過した時点にアキレスが到着すると、当然、亀はその先に行っていることになるので、永久に追いつけないように思えますが、何か変ですよね?どういうことでしょうか?
おさらい
まずはいつものおさらいです。交渉するためには3つのステップを踏まなければいけません。
①自分の目標は何か、②相手は何を考えているか、③相手と「何を」「どう」与え合うか、という点です。
①「自分の目標」は、「交渉前には持っていなかったもので、交渉後に持っていたいもの」のことです。交渉によって自分が何をしたいのかをきちんと意識することで、間違った交渉を防ぐことができます。
②「相手は何を考えているか」では、相手が何を考え、何を交渉の目標に置き、何を重要とみているのかを理解しなければなりません。交渉では相手に受け入れてもらわないと合意できませんから、相手のことをよく知らないといけません。相手を理解するためには、(ⅰ)相手の話をよく聞き、(ⅱ)相手に適切な質問をする、この2つが重要です。あなたがイメージするよりもかなり多くの時間、全体のうちの8割は相手の話を聞くことに割く必要があります。話を聞くときにも質問をするときにも、常に敬意を払い、いたずらに感情を刺激するようなことをしてはいけません。感情は交渉を進めるうえで良い作用も悪い作用もあります。そのため、感情とうまく付き合うということが大事です。
感情についても言えますが、人は一人ひとり考え方や、物事の見かたが違います。見たいものしか見えない盲点もありますし、過去のことに囚われて抜け出せないこともあります。人である以上、そのことを責めることはできません。ただ、あなたが相手のこと、また自分のことを知るうえで、バイアスの影響は避けることができません。今回も、引き続きバイアスについて考えていきたいと思います。
手に入りやすい情報
いろいろな情報や条件を吟味するとき、人は手に入りやすい、目につきやすい情報に飛びつきがちです。内容をよくよく吟味すれば、それが必ずしも正確な情報でないことが分かるのに、印象が強く容易に手に入る情報を、なぜか人は不用意に信じてしまうという傾向があります。
アメリカの大統領選で、トランプ大統領が有利になるようなフェイクニュースをロシアと組んで流させたという疑惑は記憶に新しいと思いますが、このような疑わしいニュースは、内容をきちんと見ればそれが真実であることが疑わしいことはすぐに理解できるのに、それを信用してしまいがちなところに問題があると言われています。「ネトウヨ」と呼ばれる人たちのネットの書き込みも、基本的には同じでしょう。
情報は鮮明であればあるほど、また思い出しやすいものであればあるほど、その影響力は大きく、内容が伴っているかどうかを問わず、人を信用させてしまうと言われています。陪審員に対する訴訟戦略に長けたアメリカの弁護士などは、このことを十分理解しており、陪審員に対するプレゼンテーションは具体的で、印象的な表現をするよう常に心がけています。たとえば、ある実験で、建築に関する訴訟で建築会社の建築の不備を主張する際に、「背板が荒いので、なめらかにされなければならなかった」ではなく、「背板がささくれ立っていたので、やすりをかけなければならなかった」と主張するほうが、陪審員が判断した損害額は大きくなったそうです。
印象の強い情報にすぐに飛びついてしまうことは、日常生活でも多く見られます。たとえば、就活生に人気の企業について、就活生になぜその企業を選んだかをヒアリングすると、多くの就活生はその仕事の中身に関心があると答えますが、人気企業の順位は概ね年棒が高い順になっており、就活生が年棒という目の前の印象強い情報に引っ張られていることがわかります。
このような情報の影響力は、うまく使うことができれば心強い道具になりますが、何も知らないと、騙されてしまいかねないものでもあります。相手のことを知ろうとして、このような情報に目が行ってしまうと、相手のことを十分に理解できなくなってしまいます。このような、「手に入りやすい情報」「目立つ情報」に対するバイアスに、どうやって立ち向かうべきでしょうか。
いったん落ち着く
いったん落ち着くこと、これが大事です。目の前にある飛びつきやすい情報に対して、いったん立ち止まり、考える時間をつくりましょう。
たとえば、あなたが買ってまだ3年目の冷蔵庫が壊れてしまい、修理費用も高くつくということで、これを機に少し大きめの冷蔵庫を買い替えに家電量販店に来たとしましょう。予算は10万円です。色は白色、観音開きで音も静か、しかも丈夫で壊れにくいと謳っている大手メーカーの冷蔵庫が気に入りましたが、価格は15万円となっています。そこであなたは、これまでに学んだ交渉を活用して、3万円も割引してもらいました。予算を少し超えますが、12万円で購入決定です。するとすかさず販売員が「保証はどういたしますか?メーカー保証は1年だけですが、冷蔵庫は家電の中でも壊れやすいですし、そのたびに買い替えも大変なので、メーカー保証とは別に購入時から5年間の保証を1万円でつけることができます。保証がないと修理で1回数万円もかかることもありますし、もともとの15万円の消費税より安いですから、みなさんつけられていますよ。」と勧めてきました。
冷蔵庫に限らず、家電の長期保証をメーカー保証とは別につけられる方は実際に多いようですが、気をつけたいのは、メーカー保証が1年だとすると、長期保証の実際の価値は4年分ということになります。しかも長期保証のなかにも、期間が先になるごとに、修理の保証金額や内容が変わっていくものもあります。そうすると、4年間の保証というものが、1万円という価値に見合うものかどうかを、いったん落ち着いて考えてみることが大事です。保証を付けない場合、修理にどれくらいお金がかかるのか、きちんとした資料をもらって、本当に1万円の価値があるのかどうかを落ち着いて考えてみましょう。壊れにくい冷蔵庫とまで言われているのであればなおさらです。販売員の方が「冷蔵庫が壊れやすい」と言っているのは何を根拠に言っているのか。いちど落ち着いて考えてみてください。そうすれば、ほとんどの長期保証が、家電量販店の利益になっていることに気が付くはずです。消費税より安いなんて情報は、情報としては何の意味もありません。
人は、使いやすい形に合った情報に依存しすぎてしまい、もっと関連の深い重要な情報をないがしろにしてしまいがちです。手に入りやすい情報ほど、注意して、落ち着いて内容を検討してみる、このことを忘れないでください。
今回の質問
さて、冒頭の質問に戻ります。問題文からはアキレスが亀に追いつくことはできなさそうです。なぜでしょう。
落ち着いて考えてみれば分かりますが、今回は問題文の中にトリックがあります。例えば、アキレスがA2に到着したときというのは、正確にいうと、「『亀が通過したA2』に到着したとき」とされています。つまり、問題文の中のアキレスが到着した地点は、すべて亀が「通過した」地点のことを表していて、亀とアキレスが同時に到着した地点ではないということです。「A○」の時点がいくつもあるという問題と、アキレスと亀の距離や時間の問題を混同しているともいえます。アキレスの足のほうが速いのですから、たとえばA105の地点では、アキレスは亀と同時に着いていて、A106の地点ではアキレスは亀よりも早く着いているかもしれません。
議論の前提がどうなっているか、視点がどう設定されているかというのは、非常に重要な問題ですが、ついつい見逃しがちです。
パッと見た情報だけを見て判断してしまうと、重要な情報を見落としてしまいます。交渉では、とにかく落ち着いて、「この情報はどういう意味だろう」といったん落ち着いて考えてみるようにしましょう。
今日はここまで。更新は原則毎週火曜日です。相談や質問も引き続き募集しています。
illusted by Pablo Peiker
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