久しぶりの更新です。
新型コロナウイルスの影響も、なんだかんだで社会も受け入れてきて、なんだか慣れてき過ぎている感じがします。
ただ、コロナ禍は社会の様々な在り方を変容させているので、そういう意味ではいまだに話題が尽きることはないですね。
宗教界もコロナ禍で様々な取り組みがされているそうですが、そのひとつに「オンライン法要」というものが始まっています。法事に集まれない檀家や親族に向けて、儀式の動画をネット中継する試みです。全国の寺院の間で急激に広がりを見せているそうです。
オンラインでするなんて、なんて罰当たりなのだという批判がくることは容易に想像できます。
でもよく考えてみると、オンラインと法要というのは、ことのほかマッチしているのかもしれません。
そもそも、法要というのは、故人を偲び、冥福を祈るために営むものです。冥福というのは、冥途の幸福のことで、故人があの世でよい報いを受けてもらうために、この世に残された人が供養するものです。
つまり、おおざっぱにいえば、あの世にいる人に対して、この世にいる人が幸福を願うというものなんですね。
宗教上の議論に立ち入るつもりはありませんが、一般的な説明を前提とすると、あの世とこの世は、物理的につながっているわけではありません。お寺が世界をつなぐ入口というわけでもありません。そもそも、祈ることで繋がる精神的な世界なわけです。
そうであれば、お寺に行く必要というは特にないことになります。そもそも祈ることで繋がる世界なわけで、オンラインでもそれは変わらないわけです。そもそも、祈ることでオフラインからオンラインに切り替わるわけです。
もちろん、何もない空に向かって祈ることに抵抗があるように、パソコンの画面に向かって祈ることに抵抗する気持ちもあります。
でも仏教では、各家庭にお仏壇を置いて、そのお仏壇のお釈迦様に向かってお祈りをしてきました。そういう意味でも、お寺に行く必要はやはりないわけです。お仏壇でもあの世へのチャネルになるのなら、パソコンの画面に映るお寺のお釈迦様にお祈りしても、あの世へのチャネルは開かれると考えるのが論理的でしょう。何より、家庭のお仏壇にはお坊さんはいませんしお経を唱えてくれる人もいませんが、パソコンの画面の向こうには、立派なお寺のお坊さんがお経を唱えてくれているので、むしろお仏壇よりも、あの世へのチャネルは開かれているような気すらします。
ただ、そうやってオンラインでもできる!というと、なんでお寺が必要なんだという別の議論も沸きそうなので、宗教界ではタブーなわけですが、京都西本願寺みたいな超メジャーなところが取り組み始めていることから、こういう動きは今後加速するかもしれませんね。
一見全然合わないように見えても、そもそも論に立ち返れば、実は親和性があるということはよくあることです。
交渉でも、なぜ交渉しているのかという目的、そもそも論を見失わないようにしないといけません。
これからどんどん、もっとびっくりするようなオンラインの加速化が起こりそうで楽しみですね。
ではまた(^^)
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