第19話 心にくさびを打ちつけるアンカリング~どちらが先にオファーをするかを巡る果てしない攻防~

今回の相談


今回の相談は,お小遣いのアップをしてもらいたい夫と妻のやり取りです。アップしてほしい金額をどう切り出すか,考えてみてください。

妻に小遣いを増やしてもらうよう交渉しようと考えています。いまの小遣いは月2万円です。これだと、タバコ代と1回の飲み会代で消えてしまいます。私は少なくとも3万円以上にしたいと考えているのですが、たとえば私が少し多めに4万円とかいうと、妻が怒って1円も上げてくれないということにもなりかねません。3万円と提案して、そこから下げられてしまうのは嫌です。かといって、妻のことを立てて、妻から金額を提案してもらうようにお願いしたとすると、妻の機嫌が良い時でも2000円くらいしか上げてくれないような気もします。いったん2000円と言われると1万円も上げるのは無理でしょうし…。

私から具体的に金額を提案するか、妻から提案してもらうか、どちらがよいでしょうか?

 

おさらい


さて、恒例の復習からです。交渉は3つのステップで検討します。①自分の目標は何か、②相手は何を考えているか、③相手と「何を」「どう」与え合うか、という3点です。

①「自分の目標」は、「交渉前には持っていなかったもので、交渉後に持っていたいもの」のことです。自分のことをまずは理解すること、自分の情報を整理することから交渉は始まります。

②「相手は何を考えているか」では、相手が何を考え、何を交渉の目標に置き、何を重要とみているのかを探ります。相手を理解するためには、(ⅰ)相手の話をよく聞き、(ⅱ)相手に適切な質問をする、この2点がポイントです。相手の話をじっくり、忍耐強く聞く。8割以上は相手の話を聞くことに費やしてください。

話を聞くときにも、質問をするときにも、常に敬意を払う姿勢を忘れてはいけません。交渉は相手があって初めて成立するのですから、失礼な態度をとらないようにしましょう。そうすれば、話を聞くだけでもとても多くの情報を得ることができます。時には感情的になるときもありますが、感情は悪いものではないので、うまく付き合いながら交渉を進めることが大事です。

交渉を行う際に避けられない障害が人のこだわりや偏見(バイアス)です。見たいものしか見ないバイアス、過去に囚われるバイアス、目立つ情報にすぐに飛びつくバイアス、自己中心主義や自信過剰のバイアス、言い方(フレーミング)によるバイアス、同じモノでも自分のモノだと特に高い価値を感じるバイアスなど、様々なバイアスがあります。

今回は、最初に提示された条件から逃れらなくなるバイアス、アンカリングについて考えてみます。

 

自分から提案するべきか、相手の提案を待つべきか


交渉をするときに、昔から延々と議論をされているのが、自分から条件を提案するべきか、相手に提案させるべきかという問題です。

感覚的には、相手から提案をしてもらうほうが、相手の情報を知ることができますので有利に思えます。あなたが考えていた条件よりも、有利な条件を相手が自ら提案してくれる、そんなタナボタ的なこともあることを考えると、みすみすあなたが自分の情報をさらけ出して、せっかく有利に交渉できるチャンスを不意にしてしまいかねません。実際にある大学が交渉の授業の際に学生に質問したところ、80%の学生が、提案はまず相手にさせるべきと回答したそうです。

ですが、そう簡単な問題ではなさそうです。

 

アンカリングとは


アンカリング、日本語訳にすると係留効果を呼びます。アンカーとは船のイカリのことです。最初に提示した条件が、船のイカリのように交渉の当事者間に重くのしかかり、交渉の当事者がその情報に大きな影響を受けてしまう心理現象をいいます。

アンカリングは、交渉の最初だけではなく、交渉のいろいろな場面で姿を現しますが、とりわけ交渉の開始時点では、その影響が強く出ます。最初に出された情報が、あまり意味のない情報であっても、当事者がそれに左右されてしまいます。あなたが先に相手から金額を提示されると、その金額が交渉を支配してしまうという現象です。

このアンカリングの効果を実証するために、複数の不動産査定の専門家に、ある住宅(A住宅と呼びます)の査定を依頼しました(実験の詳細は、「マネジャーのための交渉の認知心理学」参照)。

実験の内容は、複数の物件について10枚以上にわたる住宅情報(その住宅の詳細な情報や近隣の情報)を載せ、A住宅の1枚目の表紙にだけ細工をしました。表紙には、参考価格を載せているのですが、A住宅の表紙の価格だけ、あえて合理的に想定される価格から12%高い価格、12%低い価格、4%高い価格、4%低い価格の4種類にしました。

不動産査定の専門家にはそのことを伏して、あくまでも参考価格ということで、複数の物件の査定を依頼しました。この表紙の価格に影響をされないのであれば、12%の価格差は生じないはずですが、結果としては、A物件の査定金額は、12%高い資料をもらった専門家は高い金額を、12%低い資料をもらった専門家は低い金額を出したそうです。

しかも、どの専門家も、表紙の参考価格は査定の際には考慮せず、自分の各種調査や計算により査定価格を割り出したと回答しました。

このように、最初に提示された情報は、知らず知らずのうちに、当事者の考えに影響を及ぼすということがわかっています。

このような、アンカリングを前提とすると、私たちは先に条件を提示して、こちらに有利な条件でアンカリング効果を発揮させるべきだとも思えます。

 

相手の情報収集を優先したり、こちらにとって有利な条件を出させるために相手に先に条件を提示させるべきか、それともアンカリング効果を狙ってあなたから先に条件を提示するべきか、どちらがよいのでしょうか。

ココロにアンカーをおく

 

交渉決裂されるリスク


あなたが交渉を始める際には、まず自分の目標を決めないといけません。交渉の目標とは「あなたが交渉前には持っていないもので、交渉後の持っていたいもの」のことです。目標は、相手と交換できるものである必要があり、独りよがりなものではいけませんが、変に譲歩する必要はありません。むしろ、目標は高いほうが成功の可能性も高いという研究結果もあります。あなたが決めた高い交渉の目標自体が、あなたにとってアンカリングとなり、安易に妥協しない姿勢をつくり、交渉を有利に進める一つの要素となってくれます。

ただし、交渉の目標を高く設定し、アンカリングの効果を狙って、こちらにとって過度に有利な条件提示をしてしまうと、相手に受け入れられず、交渉が決裂してしまうリスクもあります。

交渉が決裂してしまうと悲惨です。交渉を再開するためには、あなたは大幅に譲歩しないといけなくなります。強気で交渉を始めたつもりが、弱気で譲らないといけなくなってしまいます。

あなたが条件を先に提示するということは、このような交渉決裂のリスクと対峙しないといけません。

 

どちらが良いか?


それでは、結局どちらが良いのでしょうか?

そもそも、なぜアンカリングが交渉のスタートの際に強力な効果を発揮するかといえば、交渉のスタート時点では、情報が少ないため、無意識的に提示された条件を有意義な情報だと認識してしまうためです。

逆に言うと、交渉のスタート時点から、あなたがきちんと状況を分析して情報を収集・整理できていれば、アンカリングの効果を弱めることができます。

注意しないといけないのは、アンカリングの効果を弱めることはできても、完全に無くすことはできません。最初のオファーの「影響を受けるかどうか」ではなく、「どのくらい影響を受けるか」という程度の問題です。

あなたの交渉の目標や置かれた状況など、あなた側の情報が整理できているときに、相手の情報を収集するために、またタナボタ的な条件提示を狙って、相手から先にオファーをもらうメリットはあります。

そうすると、こちらから最初にオファーを出すか、相手に先にオファーを出してもらうかは、あなたがアンカリングでどの程度影響を受けるかしだいです。つまり、アンカリングであなたが受ける影響よりも、相手に情報を開示させたり、あなたにタナボタ的な有利な条件を相手に提案させたりするほうがメリットがあるかどうか、ということで判断するのがベターではないでしょうか。

 

これをまとめたものが次の表(「GETTING(MORE OF)WHAT YOU WANT」マーガレットA・ニール、トーマス・Z・リース著の217頁に記載された表です)になります。

 

まず、濃いグレーの部分は、あなた自身の交渉の準備が不十分なとき、つまり自分の交渉の目標すらきちんと決めていないときです。このときは、そもそも相手と交渉をスタートさせるべきではないので、塗りつぶしています。

 

薄いグレーは、あなたが自分の交渉の目標を決めて準備ができていますが、相手のことについては十分に把握できていない場合です。このとき、相手が自分の目標すら決めておらず準備が不十分のときには、あなたにとって予想外のタナボタ的な良い提案をしてくれるかもしれないので、相手に先にオファーを出してもらうメリットがあります。あなたは自分自身については準備ができているので、アンカリングの影響をある程度は弱めることができます。たとえば、近所のフリーマーケットで、本当は価値のあるお茶碗を、売っている人が気づいていないという場合です。この場合は、あなたから金額を値引するよりも、売っている人に、いくら値引きしてくれるか聞いた方が良いでしょう。

 

あなたが自分自身について交渉の準備ができている場合でも、相手があなたの情報を把握している場合や、交渉の目標をきちんと決めている場合には、そのようなタナボタの提案をしてくれる可能性は低いです。また相手は自分のことまたはあなたのことをわかっているため、そのオファーも高い条件の可能性が高く、あなたが受けるアンカーの影響が大きくなる可能性があります。そのため、あなたから先に有利なオファーを出して、相手にアンカーを打ち付けるほうがベターでしょう。

 

白色はあなたにとって、さながらスターをとったマリオのように無敵の状態です。あなたは自分のことも相手のこともしっかりと把握して準備もできているので、相手が目標すら決められていないときには、タナボタの提案を待ってもアンカリングの影響は少ないですし、そのようなタナボタ提案がない場合には、あなたが有利な条件でアンカーを打ち付けるべきです。

 

結局、ほとんどの場合、あなたから提案するほうが有利という結論になりそうです。

もちろん、上の表は一般的な例でしかありません。状況はいつも違いますから、上の表が当てはまらないことも多くあります。大事なことは、常に状況をみながら、どうするべきかを考え続けることです。

常に考えることが大事

 

 

アンカリングの効果を強くするもの、弱くするもの


アンカリングの効果は、その条件が、具体的であればあるほど効果は強くなります。具体的な条件であれば、その根拠が正当なものだと考えてしまいがちだからです。

そのため、あなたが先に条件を提示するのであれば、その条件は、できれば具体的なものをあげるべきです。また、なぜその条件なのか、理由も説明できればさらに強力な効果を及ぼすことができます。

 

あなたが相手から際にオファーを受けてしまった場合、その影響を回避するのは容易なことではありません。

「なぜこんな条件なんだろう」と考えること自体が、あなたへのアンカリングをより強くしてしまいます。

そこで、あなたが先に相手にオファーを出されてしまった場合は、「それはさておき」と言って、あなたの提案を最初の提案のように相手に出すことが、意外なほどに効果的です。要は、相手のオファーをなかったことにして、意識の外にやることです。簡単ではありませんが、緊急の対応策として使えるので覚えておいてください。

それはさておき、林檎でもどうですか

 

今回の相談の検討


さて、冒頭の相談に戻りましょう。今回は、お小遣いを2万円から3万円以上にあげてもらいたいという、切実な(?)ご相談です。この方をAさんと呼びます。Aさんは自分から金額を切り出すべきか、奥さまから言ってもらうのか悩んでいるようです。

Aさんの交渉の目標は、「お小遣いを月3万円以上にしてもらうこと」ですが、なぜ月3万円以上にしたいのかは、いまひとつ分かりません。具体的になぜ増やしたいのか、Aさん自身きちんと理由を説明できることが大事です。Aさんの交渉の目標が決まったとして、奥さまの交渉の目標は何でしょうか?多少でも増額してもらえる様子だとすれば、奥さまの目標は「家計に影響を与えない範囲で小遣いを増やすこと」といったものが考えられます。いずれにしても、金額の前に、奥さまにお小遣いについてどう思っているか聞いてみることが大事です。もし、奥さまが、お小遣いを増やすことは問題ないこと、しかもそれなりに大きな金額を考えていそうだとAさんが判断すれば、奥さまに金額を言ってもらうこともアリでしょう。

逆に奥さまがかなり渋っているのであれば、Aさんから3万円以上の金額を提案して、アンカーを打つというのもアリです。渋るわけではなく、Aさんの思惑も読めていそうだとすれば、この場合もAさんから提案してアンカーを打ちましょう。

注意する点は、高すぎる提案をして、交渉決裂させないことです。4万円が危なそうであれば、それより少ない金額で提案する必要があります。いくらだったらよいのか、奥さまの話を踏まえて決断すべきです。なぜその金額でないとダメなのか、Aさんがきちんと理由を説明できるかで、アンカリングの効果は変わってきます。

決裂させない範囲で、説明できるあなたに有利な条件を提示すること、それが大事です。

 

今日はここまで。更新は原則毎週火曜日です。コメント欄も下の方にあるので、よろしくお願いします。相談も引き続き募集しています。

illustration by o_lie

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コメント

    • ゆうぞう
    • 2018年 6月 05日

    中嶋先生、こんにちは。いつも興味深く読んでいます。

    今日のお話のアンカリングという考えがとても腑に落ちました。
    私は海外旅行に行くのが好きなのですが、
    旅行先でお土産を買うとき、値下げ交渉できるような場所では
    いつも最初にかな~り安い価格から交渉スタートします。

    そうすると、だいたい「それはムリだ!」と言われて
    そこから具体的な価格交渉が始まるのですが、
    相手が自分の期待する価格帯を知っているせいか、
    最終的にはこちらが期待する価格帯で交渉成立することが多い気がします。

    予備知識としてアンカリングという理論(仕組み?)を知っているか知っていないかで
    こうした交渉ごとの結果は大きく変わりそうですね。

    ところで、こうした無意識下での行動傾向って全世界共通なのでしょうか。
    もしそうだとしたら、フロイトの集合的無意識みたいな概念で面白いなと思いました。

    いつも更新楽しみにしています。

      • 中嶋俊明
      • 2018年 6月 06日

      ゆうぞうさん
      いつもお読みくださりありがとうございます!

      現地の人は観光客の情報に精通しているので,「この国の人ならいくらで売る」と決めているのかもしれないですね。
      そうすると,こちらからどんな金額を提案しても,お店側にアンカリングの効果はあまりなくて,結局お店側の思っている金額になるのかもしれません。
      不用意にこちらが高い金額を言うことを狙っているのかもしれないですね。
      表でいうと,薄いグレーの一番上の場合にあたると思います。

      でも,旅行では,こういう交渉自体が楽しいので,楽しんだもの勝ちな気もします。

      バイアスは,先天的なものもあれば,文化によって後天的に身につくものもありますので,一概にはいえないと思いますが,アンカリングに関しては先天的な要素が強いと,私は思います。
      そういう意味では,集合的無意識に近いのかもしれませんね。よくわかりませんが(^^)

    • まみ
    • 2018年 6月 27日

    あ、こっちだ☆
    中嶋先生、こんばんは(^-^)/

    非常に興味深く読みました。わたしは相手に手の内を全て見せてしまいがちなので、とても勉強になりました。

    ちゃんとした情報収集と状況をきちんと読む力が必要なんだな~と感じたと共に、やはり人間対人間☆
    交渉には、”自分が真に求めているものは何なのか”ちゃんと自分と対話し知った上で、お互いに相手が何を求めているのか理解する・しようとする深く優しい心が大切な気がしました。そして、そこに齟齬が生じた時にコミュニケーションと言う人間に与えられた素晴らしい術を用いて、心の擦りあわせの出来る関係性をどんな方とも築いていきたいものだなぁ、と思いました。誠実に、真っ直ぐに・・・☆

      • 中嶋俊明
      • 2018年 6月 28日

      まみさん
      コメントありがとうございます!
      そうなんです、結局、人間対人間なんですよね。機械を相手にしてるんじゃないので、温かみのある対応が最終的には一番大事なんじゃないかなぁと思います。
      その上で、テクニック的なものとして、どちらから提案するかを考えてみたほうがいいだけで、一番大事なところはそこじゃないんですよね。書いた私が言うのもなんですが…(^^;)

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